覚え書き。

日常考えたことのメモ。

神田の魚海船団

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神田の「魚海船団」にて。甘い醤油(嫌いな人は嫌いですよね)が置いてあって,脂が濃いもの,白身にはあいます。光り物,酢締めなどは普通の醤油で。

店員が「その辺の寿司屋よりうまいですよ」って言っていて,盛り合わせにしたらたしかにねぇ,と思った。

はてなブログベータ

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これはつまり,Twitterに対するはてなさんのボヤキということでよろしいでしょうか。

ぼくだったら,こう書きたいと思っても,違う書き方をすると思います。

短いつぶやきで伝えられない気持ちを,
ちゃんと書き残してみませんか? 

まず,「短いつぶやき」が,「短いつぶやき」で伝えられない気持ちを書き残したいのか,「短いつぶやきで伝えられない」気持ちを書き残したいのか。どっちなのかと。Twitterへのボヤキだったら,「短いつぶやきでは伝わらないでしょー?そうでしょー?ちゃんと書きたいでしょー?」ってところをおさえないといけません。

短いつぶやきでは,気持ちが伝えられないと感じていませんか?
きちんと書き残してみませんか? 

とか。それこそ,Twitterばっかり使っていて,はてなの気持ちが伝わっていないユーザーさんたちには伝わらないって話ですよ。

※なお,広告文にセンスがないのは仕様ですのでご了承ください。

 

 

見合い結婚の敷居はすごい高いゼって話

はてブでこんなエントリーがささやかれているのでのっかってみます。

恋愛結婚の方が条件は甘いのに。
http://anond.hatelabo.jp/20121004213745

見合いってすごいおもしろいシステムで,たぶん30~40年前における「見合い」というシステムと,現代における見合いのシステムはかなり違うんですよね。昔の方は,「見合い」イコール結婚みたいな。一度会っちゃったら,それなりに真剣に考えなきゃね(ほら,紹介している方の顔もあるし)みたいなシステム。

現代における見合いは,男女がお互いの見た目・知性・ 財力等をほかの男女と比較考量しながら,検討するための機会にすぎません。なぜかというと,見合いの場面に引き合いにだされる男女は,いずれも自分でパートナーをさがすことができない,恋愛市場における弱者あるいは未経験者です。そうした男女が結婚に乗り出すには,見た目・知性・財力など,恋愛市場における経験値とは別の軸のスペックが,他の男女の中で突出している必要があります。

よく,あばたもえくぼとか,たで食う虫も好き好きという言葉(=男女がお互いのどこに惹かれるかは,他人には理解不能である)があります。この言葉は「まあ,好きなら好きでいいんじゃないの?」とも言えますし「だからこそおもしろいよね」とも取れます。

一方,見合いにおいては,そうした理解不能な基準は出てきません。就活と同じようなもので,まずはお互いのスペックを見極めた上で,会ってみる頃には「だいたいこんなもんかなー」という予測を立てた上でお互いの探り合い。まあ,なんていうか,そこにセレンディピティーは存在しませんから,あばたもえくぼ,というレベルでは全然ありません(つづく)。

映画『ダークシャドウ』

映画『ダークシャドウ』を見た。

 まず,話のあらすじとしては,新大陸アメリカにはるばる渡ってきて水産業で成功した主人公一家(コリンズ家)は地元の名士として,地名になるほどまで成長。コリンズウッドと呼ばれる邸宅を建てるにいたる。一方,主人公に惚れている下女(実は魔女)は,主人公となんとか一緒になろうと画策するが,失敗。主人公と添い遂げようという女性に呪いをかけ,自ら命をたつように仕向ける。主人公は共にガケから身投げするが,魔女の呪いによりヴァンパイア化し,死ぬことができないカラダに。

どうやっても,主人公の気が引けないことがわかった魔女は,ヴァンパイアであることを村人に明かすことで,主人公を棺桶に放り込み200年の眠りにつかせる。

さて,それから200年たってコリンズ家は大いに衰退しており…というストーリー。

この映画,キーワードがいくつかある。まず「血と家族」。血と家族は何より大事だよということが映画の冒頭にナレーションで語られる。そして「呪い」。魔女の呪いによって主人公は死ねないカラダになり,コリンズ家は呪いによって没落していく。そして,魔女自身も,主人公バーナバスのことを愛しているのだが,その思いは通じないという呪いにかかっている(バーナバスは「オマエは誰も愛せないのだ」と言っている)。

200年たった世界でも,コリンズ家はなんとか持ちこたえている。敵対する水産会社の代表はなんと200年前の魔女。人前では「ひいお祖母様」と言っているけど,それは実は自分のこと。バーナバスを棺桶に放り込むだけては飽き足らず,200年間ずっとコリンズ家を痛めつけていたという話。

キーワードを読み解く前に,いくつかの疑問を呈しておきたい。

1)映画のストーリーがバーナバス中心で,他のキャラクターがあまり描かれない。たとえば,精神科医はどうしてコリンズ家に肩入れしているのか,女主人のエリザベスはやけにしっかりしているが背景がよくわからない

2)ヴィクトリア・ウィンターズとかマギー・エヴァンスは話のカギになるのだけれど,魔女の呪いで200年前に崖から身投げしてしまった彼女,そして同じく魔女の呪いで崖から身投げしたデヴィット・コリンズの母は,いずれも魔女の呪いで命を落としたり,命を落としかけている。一方,それらの3人には何かつながりがあるような,ないような,である。

3)バーナバスに惚れた女は皆おかしくなるよ,という設定。

映画を見ながら思ったのは以上の3点。

まず,1)について。ひとつは描く時間がなかったという話ではないかと。血と家族,呪いの話を描くだけでも割に大変だ。精神科医はアルコールが手放せずしょうもない感じに見せたり,エリザベスの弟はパーティーでこそ泥したり,街の女と浮気したりと,しょーもない感じで描いて終わりという感じだった。まあ,ここは,バーナバスに注目して,ということで流す。エリザベスがバーナバスを励ましたり,魔女と敵対する場面は女主人としての貫禄があってとてもよかった。

2)まず亡くなった3人はいずれもコリンズ家に恋しているという共通点がある。(200年前になくなった彼女はバーナバスと婚約,デヴィットの母親もコリンズ家に嫁いでいるし,ヴィクトリアもバーナバスに恋している)。最後の場面で,ヴィクトリアは実は身投げした彼女だった,というような描かれかたもしているので,もしかすると裏で血縁がつながっているという話かもしれない(デヴィット自身が「見える」体質であることと,ヴィクトリアが「見える」体質であることを鑑みると,遠縁の可能性もありそう)。

3)バーナバスは魔女に対して「すべての原因はオマエだ」と指摘してますが,魔女からすれば「バーナバスが悪いんだ」という話になります。さらに元をたどると,映画の冒頭で新大陸に渡る前の時点で,魔女はバーナバスに見ほれているシーン(もちろん子どもだけど)があるんですね。だから,呪いの発端はどっちがどちらかというのはなさそう。

そうやってみると,「呪い」というキーワードは,あくまで映画の主題にしたかった「血と家族」ってところを説明するための題材でしかない可能性もある。途中,バーナバスは,家族の一員だった精神科医と,ろくでなしなデヴィットの父親を追い出す。この辺も,家族だから云々ではなく,家族を支える支柱たる人でなければいけないという厳しさも表しています。

 

最後に,この映画で映像としての見所をいくつか。

・200年前のアメリカは主にCGで,1970年代のアメリカはおそらく街をひとつ作って見せています。画面の色合いも含めて,大変美しく,また雰囲気を感じる映像です。

・マクドナルドのロゴタイプや,シェル石油のとてもださい(けど色はいまと同じ)看板,主人公達の服装や,屋敷内の「これは新しいものか?古いのか?」と見間違うような小物の数々。

・ヒッピー(かわいそうにバーナバスの「食事」にされてしまう)の映像。キャンピングカーみたいなのに乗ってその辺をウロウロして,ハッパ吸って「ピース(平和)!」って言ってるのとか,きっとこういう感じだったんだろうな,と。

分析にすごい時間がかかる

協調フィルタリング」を実装したくて、りろんを覚えてから、いざ実践。

まず、1個のアイテム(仮にAとする)に対して、そのアイテムをダウンロードしているユーザーの一覧を取得する(これでまずユーザーの対象が全ユーザーから、特定のユーザーに絞り込まれたことが分かる)。次に、それらのユーザーが、アイテムA以外のアイテムを何回取得しているかを集計する。これらがレコメンドの素データになる。そうして、足し込んでいった結果、アイテムAと最も近しいアイテムαが算出できることになる。まあ、実際にはアイテムAの隣にあるアイテムBだったりするわけだけれども。

そうやってアイテム同士の相関を取っていくことで、アイテム間の連携が見えてくるというわけ。

ただ、実際やってみると、全アイテムではないにしてもそれなりの計算量になる。なので、レコメンドするためのデータは1日1回集計するとか、そういった工夫をしないといけない。少なくともリアルタイムは無理である。

火曜日、映画を見た

家にプロジェクタが来たので映画を見た。

Zuneビデオで、さっそくだけれども、『Xメン ファーストジェネレーション』を見た。チャールズ(後のプロフェッサーX)も、エリック(後のマグニートー)も非常にイケメンでかっこよかった。プロフェッサーXは、若干気軽に女の子を口説いている感じがしてよかった。何しろ、口説き方が「キミの目は右と左で色が違うね。遺伝異常だね。ステキだねぇ」である(若干脚色)。

後のマグニートーに対して、力の正しい使い方を教えたのも、実はチャールズだったという描写があり「へー」である。チャールズは、エリックに対して「冷静と情熱の間にいいポイントがある」みたいな指導をする。憎しみ一辺倒のエリックに対して、楽しい頃の記憶をみせて感情のバランスをとらせるという方法。ただ、結果、彼の感情はどこかの時点で宿敵に対する憎悪から、人間に対する憎悪に変わっていく。映画を見ていて、この「切り替わり」がどこなのかよく分からなかった。

そもそもの発端、エリックは宿敵がミュータントだと知っていたのかどうか分からない。国から命令されてミュータントを攻撃するのを見て「いや、それは国が言うからやってるだけで」と大人な意見のチャールズに対して「そういう連中に痛い目に遭わされたんだ」と非常に現実的なエリック。はて?でもエリックを最初にひどい目にあわせた宿敵は、実はミュータントだったので、恨むべきはそちらではないか、とも思う。

そう思って、さらにこの映画を振り返ってみると、劇中にはあからさまにミュータントを攻撃する(批判的な意味もこめて)シーンは実はあんまりない。

・ミュータントのワカモノに「いつものあれやってよ!」とからかうCIAのスタッフ
・ミュータントを攻撃する米国とソ連

そうやってみると、実は、主人公のチャールズがレイブンに対して「いやいや人前で変身しちゃダメだから」と言ったり、レイブンが変身した人間の姿の方がキレイだよ、とビーストに言われて「ああ、この人そういう意識だったのね」と落胆するシーンの方が印象に残るわけです。

そうすると、この映画で描かれるミュータントに対する憎悪は、実は人間→ミュータント、の強烈な批判ではなくて、ミュータントの中でも人間サイドに気持ちがあるチャールズと、反人間サイドに居るエリックの戦いが中心に描かれているのだ、ということに気づきます。

「いや?そもそも、Xメンのファーストってそういう話だよ」と言われるとそうなのですが、エリックが憎んでいるのは実は、人間と共存しようというチャールズのことだったのかもしれないですね。